2018年8月12日

今日という日のうちに
 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。(マタイによる福音書6章26節)

 イエス様の教えの中でも「空の鳥、野の花を見よ」という教えは、大変美しい言葉として心に刻み付けられるものでしょう。しかし、その美しさは、現実には空の鳥が何の悩みも患いもなく自由に空を飛び回る、そういう何者にも囚われない姿だから美しいと言うことなのではありません。むしろ今日という日を、必死になって生きようとする、その姿にこそ美しさがあるのです。鳥は自分の体重の何倍もの食べ物をその日のうちに摂取しないと生きていけない動物なのです。また野の花も、今年のような猛暑続きの気候では、たちまち水分を失って枯れ果ててしまう、そのような弱さを持っている。そういう非常に弱い野の花が、それでもわずかな水分を求め地中に根を伸ばし、都会ではコンクリートのすき間を破ってでも花を咲かそうとする。そういう必死になって「今日」という日を生きようとしている、その姿こそ本当に美しいと言えるのではないでしょうか?
 その空の鳥、野の花に比べて、私たち人間は「今日」という日を必死になって生きているでしょうか?今、夏休みで子どもたちは学校の授業から解放され自由な時を過ごしています。私も子どもの頃は夏休みが近づくと「もう、勉強しないでいいんだ」というウキウキした気持ちになったことを思い出します。ところが夏休みには山ほどの宿題が出る、それが毎年の悩みでもあったのです。しかし、1か月もあるのだから、何も今日する必要がない、明日すればいい、という甘えた気持ちで毎日遊びほうけてばかりいました。そしてその明日が今日になってもまた「明日すれば」という言い訳で過ごし、それが1週間、1か月となって、最後にはもう学校が明日始まるという時に、絶対間に合わない宿題をためこんで泣く破目になったのも毎年のことでした。
 「今日」という日を必死になって生きる、それは明日という日に後悔しないために必要なことでもあります。また、「今日」という日が自分の限りある人生で二度と来ない永遠に一度限りのものであると思えば、その日を無駄に生きて行くことなど出来ない、出来る限りのことを今日という日にするべきなのだと誰もが思うでしょう。しかし、人はその今日という日をいかに無益にやりすごしてしまいやすいことか、その現実を身をもって感じることの方が多いのも事実です。
 先週は6日に広島の、9日に長崎の原爆記念日を迎えました。73年前に世界で初めて核兵器が使用され何十万人もの人の命が一瞬のうちに奪われた、その悲劇を忘れるわけにはいこません。しかし、その悲劇を唯一知っている日本の国の政府が、核兵器禁止条約に参加しないと言い続けていることに、心底驚かされている人は決して少なくはないでしょう。「今日」という日に必死になって平和を訴えていかなければ、明日また広島や長崎の悲劇が繰り返される、そのことを私たちは真剣に考えなければならないと思います。何よりも、命のために平和を守るために今日という日になすべきことをなしていく、そのような努力を惜しまない人にこそ、神様は「平和を実現する」神の子として、決して後悔しない明日を備えてくださるのです。
(2018年8月12日週報より)