2018年7月22日

命の水
 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42編2節)
                   
 今年は7月にすでに40度を超える暑さを観測した場所が出るほどの猛暑を迎え、連日「命にかかわる暑さ」が私たちの生活を脅かしつつあります。熱中症のため、多くの人が救急車で搬送され、小学生を含め死者も多数出てしまうという悲しい出来事も起こっています。熱中症といえば、私にも覚えがあります。10年以上も前のことですが、私が大学生になるまで住んでいた千葉県のある町を訪れた時のことでした。8月の中旬頃でありましたが、私は自分が昔住んでいた家のある所へ向かおうとして、古い記憶に頼りながら駅前から道をたどり探し回ったのですが、町並みも変わってしまっていて、自分がどこをどう歩いているのか分からなくなってしまったのです。もともと方向音痴の上「歩いていれば、きっと見覚えのある道が見つかるだろう」という適当さでどんどん先を行くものですから、日盛りの中、何時間もさ迷い歩く破目になってしまったのです。
 実はその日は、関東で38度を超える高温が観測された日でもあったのです。私は頭上から降り注ぐ日光と舗装された道路から立ち上る熱気の板挟みとなって、気づかぬ内に体から水分が蒸発し汗も流れなくなっていました。さすがに「命にかかわる暑さ」だと危機感を覚え、昔住んでいた家を探すのをあきらめ駅へ引き帰しかけた時、見覚えのある通学路が見つかりました。しかし、もう懐かしむ余裕もなく暑さにクラクラしながら駅前までたどりつき、喫茶店に飛び込んだのです、靴も靴下も脱いで、素足で床に足を付けた時、スーッと床の冷たさが伝わりホッとしました。そしてその時、喫茶店で最初に口をつけたコップの水が、本当に命をよみがえらせてくれるかけがえのない1杯として体中にしみ込んできたことを思い出します。
 「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める」と聖書の詩人がうたっています。たんに美しい自然の恵みを賛美する言葉ではありません。むしろ水を求めて谷に降って来た鹿が、乾ききった川に絶望し悲しい鳴き声を上げている、そのような非情な現実をうたう詩なのです。私たちも、現代の世界の非情な現実を目の前にして、同じように渇き呻かざるを得ない、そういう人生をさ迷い歩く一人一々ではないでしょうか?西日本では広範囲にわたる豪雨により、多くの人命が失われました。その被災地の復興のため必死になって働く人たちの上に今度は異常な暑さによる命の危険が迫ってくる、その現実に身も心も渇ききってしまいそうになります。
 しかし、そのような渇きを共に経験し、さらに私たちの誰よりも絶望を絶望しきって下さった神の御子が今も私たちの人生を共に私たち一人一々歩み導いていてくださる、その希望があることを忘れてはならないでしょう。その主の口から出る一つ一つの言葉が私たちの魂に注がれる1杯の命の水なのです。私たちはその1杯の命の水のありがたさと喜びを知っている者として、私たちの信仰の水をこの乾ききった世界の中を貫く川のように流していかなければなりません。その命の水を多くの人に分かつために、常に主の御言葉を心に受け、また伝えていきましょう。
(2018年7月22日週報より)