2018年7月15日

時代のしるし
 あなたたちは、夕方には『夕焼けだから晴だ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしを見ることができないのか。(マタイによる福音書16章2~3節)

 先週の7月5日から西日本の広範囲に亘って降り続いた大雨により、各地で川の氾濫や土砂崩れが相次ぎ、町々村々が水没し土砂に覆われ、200人もの犠牲者が出ました。家族、友人を失った悲しみに加え、家も職場も失うという大きな喪失感の中、避難所で苦しい生活を続けられている方々のことを思うと、何事もなく日常生活を続けている自分が、まるで違う世界にいるように感じられます。
 今回の豪雨災害の被災者の中にも、そのことが起こるまで「自分の所はそんな大きな災害は起きない」と思っていた人もいたということです。ある家では、家屋の浸水に備えて、家具を2階へと上げていた父親のところに「お父さん、早く避難したほうが良い」と息子が説得しにいったそうです。しかし父親は「ここは海抜が高いから、まだ大丈夫だ」と言ってなかなか動こうとせず、気づくともう腰の高さまで水が迫ってきて、父親もようやく身の危険を感じ命からがら脱出したというお話も伝えられています。
 私たちは自分の身にそんなことが起きる瞬間まで「自分の所はそんなことにはならない」という「根拠のない」安心感に陥っている、というのがほとんどの人の現実ではないでしょうか?確かに現代は、昔と較べれば天候の予測の精度は格段に高まっていて、今回も気象庁では今までにない大雨になること事前に察知し公表していました。しかし、私たちの心の中に「自分の所は大丈夫。今までそんな被害はなかったから」という自分の今までの経験だけでたかをくくる、そのような根拠のない安心感がある、それが一番危険なことなのだということを思い知らされます。
 私たちは「空模様を見分ける」ことは知っていても、いざそのことが起こるまで「自分にはそんなひどいことは起きない」と思いたがる、そんなことはいつも他所事として起こることだと自分で勝手に安全神話を作り上げてしまっていることが多いのではないでしょうか?「自分の身に起きないかぎり、すべては他人事」として済ませてしまっているのが私たち自身の現実なのだと思います。しかし、すべてのことを決して他人事としない方がおられる。イエス・キリストがそのような方としてこの世界に来られ、すべての人の悲しみ苦しみを「わが身の事」として背負い味わうために十字架という最悪の苦難を経験してくださったのです。そのイエス様を見上げる時に、私たちは誰もが「重荷を負う者、疲れた者」なのであり、自分自身を救うことが出来ない、救いを求める以外にない弱者であり、すべての災いの被災者であることに変わりはない、そのことを自分の真実として受け入れていかなければなりません。「自分は大丈夫」という根拠のない安心感にあぐらをかいていることは出来ないことを知らなければなりません。「時代のしるしを見る」とは、すでに私たちがキリストの愛によって罪贖われ、キリストの救いの御手により救われている、そのキリストの支配のうちに生きる者として、どんな苦難の時代をも主と共に苦しみを担い分かち合い、人の苦しみに共感する愛に生きる事なのです。
(2018年7月15日週報より)