2018年6月17日

求め探し見いだす者
 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
                   マタイによる福音書7章14節

 「狭き門」という言葉は、日本においては受験や就職の厳しさを意味するものとして使われることが普通になっています。そこでは個人の能力や資質によって、選ばれたり選ばれなかったりする、多くの人間が篩(ふるい)にかけられ、優秀な人だけが入ることがゆるされる、そのような人を選別するための門というイメージで用いられています。しかし本来「狭き門」が意味するものは、人がその持っている能力や資質によって選別され、選ばれたり弾き出されたりする人間評価のためのものではありません。むしろ「それは見いだす者はすくない」と言われるほど「見つけにくい」ものであることをイエス様は強調しておられます。
 この「狭き門」のたとえの直前の聖書の箇所には「求めなさい」というイエス様の教えが記されています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」このイエス様の教えを前提にして「狭き門」のたとえを解釈するならば、その門は人が積極的に「求め、探し、たたく」ものとして示されているものなのだと言えるでしょう。誰かが自分を優秀な人材として「求め、探し」てくれるのでもなければ、また逆に誰かが自分を無能で役にたたないから必要でないと「門前払い」するような「狭き門」ではないのです。「それを見出す者は少ない」門は、同時に「求め、探し、たたく」者には誰でも開かれるものなのだ、と言うことでしょう。この「狭き門」と対照的に示されているのは「滅びに通じる門」「その道も広々として、そこから入る者が多い」門です。その門は、誰もが見つけやすい、大勢の人が目指しているから自分もその方向へ向かわなければ、と思う門のことです。またそれは、人間をその優秀さ無能さで振り分け、そのランク付けによって命の価値のあるなしを決定する選別のための門なのでしょう。
 最近、映画にもなった岐阜県付知町出身の画家、熊谷守一という人は大変歯が悪かったということです。その熊谷守一という人が、徴兵検査を受けた時、その評価は「甲乙丙丁」の順位の「丙」であったということです。明治の頃は体が丈夫で体格が良くても、歯がたくさん抜けているということだけで、兵隊として不適格な者として役にたたない価値の低い者とされたそうです。しかし、その後起きた日露戦争では甲種合格した人が多く戦死し、守一と中学が同級だった人たちも、一人を残し皆死んでしまったと言うことです。後に守一という人はこう語っています。「私も歯が抜けていなかったら、赤い満州のどこかではてていたことでしょう」と。熊谷守一という人は97歳まで絵を描き続け、その作品と人柄が今では多くの人に愛され親しみを持って覚えられるようになっています。一生を好きな絵を描くことで過ごす以外、人の評判や世間の評価といったものに意を介することもなく生きた人だったと言います。このような人が「狭き門」を「見いだす者は少ない」道を求め探し入ることの出来た人なのだと思います。私たちも信仰において、自分自身が主によって「狭き門」を求め探し入っていく者として歩み続けたいと思います。
(2018年6月17日週報より)