2018年6月10日

神様にはめられて
 主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕えられました。あなたの勝ちです。(エレミヤ書20章7節)
                   
 最近、連日のようにアメリカンフットボールの悪質タックル事件に端を発した、某大学のアメリカンフットボール部の暴力的支配の実情が報道されています。その中で「はめる」とか「はまる」という言葉が使われていたことが、非常に印象的でした。「はめる」というのは、監督やコーチが高圧的な言葉や暴力によって、選手を徹底的に追い詰め、その選手が自分の意思では出来ないことを無理矢理にもさせるように仕向ける、そういうマインドコントロールを行うことを言うようです。つまり、自分がそれをしなければ、いくらでも代わりがいる、自分は用無しの存在として切り捨てられてしまう、そのように精神的に追い詰められた人間は、監督やコーチの指示に従わざるを得なくなり、その術中に「はまる」ことになるのだ、と言うことです。 「はまる」ということでは、私にもこういう経験があります。
19年前、ある先輩牧師から「刑務所の教誨師をやってくれないか」と頼まれた時のことです。「これは君にしか頼めない。自分はもうすぐ他の教会へ転任するので、すぐ返事をもらいたい」そう言われ「何をすれば良いのですか?」と訊くと「君が教会で話すようなことを刑務所で話せば良い」と言われました。「まあそれなら」とお引き受けしたのです。そして説教の準備をして、初めて刑務所を訪れた時、係りの人にこう言われたのです。「今日は、刑務所に入ってきたばかりの人のための入所者教育なので、宗教の話はしないでください」と。私は頭の中が真っ白になりました。そして「はめられた」と思ったのです。その日どういう話を自分がしたのかも思い出せないほど、無我夢中で何か聖書以外のことをしゃべった、そういう経験でした。後々、ある他の牧師から聞いたのは「あの時、僕も頼まれたんだけれど、無理だと断ったんだ。それで君に話が行ったんだね」という言葉だったのです。「君にしか頼めない」と言われたのは「他の牧師にみな断られたから、君にしか頼むところがない」そういう意味だったのだ、とその時ようやく気づきました。しかし、私が「はめられた」のは決して前任者の教誨師の方が「はめよう」と思ってしたことではなく、私自身が思い込みで自らを「はめる」結果となったのだと今になって思い返します。「君にしか」という言葉を「自分にしか出来ない仕事」だと受け止めたのは私自身の早とちりであったのですから。牧師なら誰でも良かったのです。ただ、そのような思いこみにせよ、その時そのように受け止めた背後には、神様の深い配慮と導きがあってのことだったということも感じます。神様の愛に「はめられ」たのであれば、これほど幸いなこともないのではないでしょうか。
 旧約の預言者エレミヤも神様に「はめられた」人でありました。神様から預言をするように命じられた彼は、語れば語るほど、同胞に憎まれ苦しみを重ねることとなりました。しかし、彼は「主に惑わされ」たことを「あなたの勝ち」ですと神様に向かって言います。どんな思いがけない悩みも困難も神様が勝利されるための出来事として信じ受け入れる時、自分にしか出来ない何かを、神様が自分に特別の信頼をもって託してくださった使命として、なし続けていく力が湧きあがるのです
(2018年6月10日週報より)