2018年5月27日

弱さに同情される主
 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
                   (ヘブライ人への手紙4章15節)

 最近、大学対抗のフットボールの試合で、ルール違反の危険なプレイをして相手の選手に怪我を負わせた加害者の選手が、謝罪のための会見をしました。その中で、この選手は監督やコーチから「相手のクォーターバックを潰せ」「相手の選手を壊せ」と指示されていた、と告白しました。その指示に逆らうことが出来ずに危険なプレイで相手の選手を傷つけてしまったことに苦しんだ末、このような告白をしたのだということです。しかし、その選手に指示を出した側の監督もコーチも、自分たちは確かにそのようなことを言ったけれども、それは相手に怪我をさせることを意図して言ったのではなく、心の弱い選手を鍛えるためにあえて厳しい言葉を使ったのだ、という弁明をしています。
 このような弁明は、政治の世界では良く使われます。「それは秘書が勝手にやったことです」と言ったり「自分には責任はない、自分の言葉を部下が取り違えたのだ」という風にその全責任を自分に仕える側の人間に背負わせるのです。それは、強い立場の者が、自分に都合の悪いことは全部、弱い立場の者に押し付ける、そして切り捨てるというやり方、この世界では常に繰り返される現実であります。
 今回のフットボール選手の場合も、彼は監督やコーチの指示に従わないと、今後、試合に出られないという恐れによって、もう何も考えられずにやってしまったのだ、と言っています。選手に何も考えなくさせるほど、監督やコーチの言葉は選手にとって絶対的な影響力がある、「洗脳」に近い力を及ぼすのだということを教えられた思いがします。
 宗教の世界でも、そのようなことがしばしば繰り返されるという悲しい現実があることも私たちは知っています。カリスマ的な教祖の一言で、信者が殺人さえも犯してしまう。そういう事件はいつの時代も、どこにおいても起こり得る出来事です。強い立場の者の一言は、弱い立場の人間を、その言葉に逆らったら生きて行けないほどの恐怖によってがんじがらめにし、まともにものを考えさせなくしてしまう、そのような暴力的な威圧感をもって人を奴隷化してしまうのです。
 しかし真実の神、愛によって人を救う神様は、そのような「強い立場」に立って人を威圧し奴隷化するような方ではありません。むしろ、「わたしたちの弱さに同情」してくださる方として、人となり「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」方だと聖書は証ししています。試練に遭われるほど人間の弱さに寄り添い、その弱さをご自身の体と心で担い、その弱さを愛し包み込んで下さる方、それがイエス・キリストの真実の姿なのです。誰一人、弱さのゆえに切り捨てることはなく、どんな弱さを持っている人間をも、その弱さによって奴隷とはしない、むしろ弱さあるままにご自身の大切なパートナーとして近づき抱擁してくださる。そのイエス様を信じる信仰こそ、私たちが他のどんな威圧的な暴力的な言葉をも跳ね返し、ただその主の愛を信頼する道へと喜んで進む勇気と希望を与えるのです
(2018年5月27日週報より)