2018年5月20日

神の子とする霊
 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。
                   (ローマの信徒への手紙8章15節)

 本日、聖霊降臨日を迎えました。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降り、その時から福音のメッセージが世界中に宣べ伝えられるようになった、その始まりの時を記念するのが聖霊降臨日であります。初代教会の使徒パウロは、聖霊を「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではない、と語っています。奴隷というのは、自分の意志ではなく、自分を所有物として支配する何者かによって囚われ、その意のままに動かされていく存在です。そして、自分が何のために動かされているのかを知らないまま、その支配する者の命令に従わざるを得ない、言い逆らうことも抗うことも出来ない弱い立場に置かれているのが奴隷という者です。その支配する者の顔色を伺いながら、その支配者の怒りや裁きを恐れ、自由に語り行動することも出来ない、そのようながんじがらめの生活を余儀なくされているのが奴隷の現実です。
 私たちは自分がそのような奴隷であるという意識はない、自分は自分の人生を自分の意志で生きている、と思っています。しかし、そのような私たちも、しばしば思いがけない苦難や悩みに陥り、自分ではどうしようもない状況に置かれた時、「なぜ自分がこのような目にあうのか」と絶望的な思いに囚われてしまうのも事実であります。「ノミのサーカス」というたとえがあります。ピョンピョン跳びはねるノミをガラスのケースに入れると、ノミはガラスにぶつかって落ちてしまいます。何度飛び跳ねてもガラスにぶつかって落ちるので、ノミは飛ぶことをあきらめ、地面を這うようになる。そのノミに小さな荷車をひかせて見世物にするのが「ノミのサーカス」なのです。「何度やっても結果は同じことだ。」というあきらめがノミを飛べなくさせる、それと同じように人間は自分が「何をやっても無駄だ」とか「自分は何をしても失敗する」という絶望に囚われると、もはや飛ぶことも跳ねることもしなくなる、小さなガラスケースの中に入れられ這うことしかしなくなったノミ同然の状態に陥ってしまいます。
 私たちは、自分の人生を自分の力や才能によって成功もすれば、失敗もする、そのどちらかだと思っている時は、人生の価値を勝ち負けという結果だけで推し量り「人間は成功しなければ駄目だ。負けたら生きる意味がない」と成功することだけにしがみつき、失敗することを恐れるようになります。しかし、成功してもいつかは失敗する、そのような限りない恐れに囚われ続け、生きて行かざるを得なくなってしまうのです。それが自己中心にしか生きる道を知らない、罪の奴隷の生き方なのです。その罪によって支配されている私たちすべての人間の救いのため、イエス様は十字架にかかり私たちの罪を贖われたのです。私たちを閉じ込める罪のガラスケースは主の十字架の愛によってすでに取り除かれたのです。そして聖霊という私たちを「神の子とする霊」が私たちを本当に自由に自分の意志で生きる新たな命として吹き込まれたのです。もはや罪の思いから解放され、自分を中心に生きることに囚われず、主の愛を中心にして生きることを人生の最大の目的としていくことが出来る。それが「神の子とする霊」を受けた私たちの真実の姿なのです。
(2018年5月20日週報より)