2018年4月22日

変わることのない生きた言葉によって
 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(ペトロの手紙Ⅰ 1章23節)
                   
 今年も新年度を迎え、教会の新たな歩みが始められます。しかし、毎年、私たちは同じように礼拝を守り、祈りを献げ、それぞれの年間行事に従って集会を開き一人でも多くの人に主の福音を宣べ伝えるために努力を繰り返してきましたが、正直目に見えて世の中や教会の様子が特別に良くなった、世界が明るい希望の光に満ちた場所となった、というような変化はほとんど感じられません。むしろ、以前よりも人と人との間に心が通じ合わなくなった、自己中心的な生き方をする人が増えて、人間関係が刺々しい時代になった、そう感じることのほうが多くなっているのが現実であります。
 1昨年天に召されたカトリックのシスター渡辺和子さんが書かれたエッセイの中に次のような文章があります。『「文明の発達は、人が独りで生活することを可能にする」ということを述べた文章に、なるほどと思いました。科学技術の進歩は、確かに私たちの生活を便利、快適なものにしています。・・・しかしながら、その便利さの陰で失っているものも多く、他人への思いやり、優しさの喪失がその一つです。かつては、体の不自由な人を見かけたら手助けし、ドアを開け閉めしてあげるのが当たり前でした。ところが自動ドアはそれを不要にしてしまったのです。車いすの人でも、ドアの前に行けば自然に開閉してくれるからです。人が独りで生活できるということは、すばらしい進歩でもありますが、他方このように、他人への無関心をも生み出しています。』
 この渡辺和子さんの言葉にあるように、現代の便利な生活自体が他人への無関心さを助長し、独りで何でも出来るがゆえに、人に頼ることや自分の弱さを他人に見せることもしなくなり、また人を手助けすることも時間の無駄のように考えるような傾向が強くなってしまっている、それが今の私たちの社会の風潮になっているのだと言えます。しかし、私たちも、振り返るならば、決して独りで生きてきたわけではありません。いつも誰かの助けがあって、今まで生きて来られたのではないでしょうか? 私は小学生の時、他のクラスメイトより非常に奥手で、何をやるにも人並に出来ない、クラスの重荷のような存在でした。そういう私に「あなたはあなた、他の誰でもない自分自身の言葉で語りなさい」と言ってくれた先生がいたのです。その先生の言葉は50年以上たっても私にとって生きた言葉として響くのです。その言葉によって、自分は今まで支えられてきたのだなあ、としみじみ思い返されます。
 「あなたがたは朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」この聖書の教えも、私たちが主イエスの愛の御言葉によって、常に心に新たな命を与えられ生かされている事実を明らかにしているものなのです。私たちはその「変わることのない」愛の言葉を人へと伝え、この世界に失われている優しさ思いやりを復活させる一人一人でありたいと願います。
(2018年4月22日週報より)