2018年4月15日

悲しみも喜びの一部として
 あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。(ヨハネによる福音書16章20節)
                   
 15年前に95歳で天に召された井上良雄という神学者の方が、上記の悲しみ即ちイエス様を信じる者たちの悲しみについて、次のようなことを言われています。それは「イエス様が天の父のみもとに帰り、そしていまだ再び来たり給わない。そのような主イエスのおられないこの世に生きなければならない」というイエス様を信じる者特有の悲しみである、と。そして「この世の人々の悩み悲しみは忘れられることも満たされることもあるが、主イエスを信じる者の悲しみは忘れることが出来ないし、終わりの日まで満たされることもあり得ない」とも井上先生は言われます。
 つまり井上先生は、信仰者とは必然的に、イエス様の復活後、天に帰りまだ来たらざるこの世界の中で、悲しむべくして悲しまざるを得ない存在なのだと言われたのです。そして、それは奪われてはならない信仰者にとって大切な悲しみでもある、と。たとえるなら、事情があって離れ離れに暮らさなければならない親子が、その悲しみを忘れられない、また忘れてはならない悲しみとして深く心に刻まれているように、愛する者の不在を悲しむ悲しみには、その愛する者との再会が果たされるまで癒されることも慰められることもなく、悲しむことがその愛の証明なのだと言えるのです。
 また、離れ離れに暮らす親子が、いつかかならず一緒に暮らせることを望みあきらめないかぎり、その未来に向かって前向きに努力し続けていくように、愛する者の不在という悲しみは、その悲しみを原動力として前進し続ける力を人に与えるものとなります。私たちの生きる世界は、確かに、イエス様がこの世に来られたことがなかったかのように、あるいは、もう主が来られることなどあきらめてしまったかのように、争いや憎しみの連鎖する罪に支配され続け、そしていつも弱い立場の人々がその争いの犠牲となるような現実がなくなることはありません。その罪の力が圧倒的に支配する世界の中で、「泣いて悲嘆にくれる」ほどに、主イエスの来られる時、その悲しみに終わりが告げられる神の国の支配が始まる時を、悲しみをもって待ち受けていくことが、信仰者である私たちの果たしていく務めなのではないでしょうか。
 あるキリスト教作家は、不治の病に余命いくばくもなくなった妻が、次のような言葉を自分に残していったことを記しています。「私がいなくなって、あなたが悲しむその悲しみは、私と共に生きていた喜び時のその一部の悲しみなのです」と。私たちは主イエスの限りない愛によって、罪ゆるされ、永遠の命に生きるものとされ、その主イエスと共にある人生を歩まされて今を生きる一人一々なのです。その主と共にある最も喜びの時の中で、私たちが悲しみ悩む時も、そのイエス様と共にある永遠の喜びの一部分なのだと言えるでしょう。やがて、主イエスがこの世界を罪の支配から真実の愛によって支配される世界へと一新してくださる時が来る。その時を知る者として、私たちはどんな悲しみを覚える現実をも、復活の喜びに満たされる未来に向かって歩み続ける道の途上の通過点として乗り越えていくのです。
(2018年4月15日週報より)