2018年4月8日

何のために定められたのか
 安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
                          (マルコによる福音書2章27節)

 舞鶴の相撲巡業の際、土俵の上で市長さんが挨拶をしている途中、突然意識不明となり倒れ、看護師資格のある女性がすぐに土俵に上がり救命措置をしたという出来事がありました。その時、行司の人が「女の人は土俵から下りてください」と連呼したということが、今、問題になっています。相撲の土俵の上には、女性は上ってはならない、という相撲界の長年の慣習に従って行司の人はそう言ったのでしょうが、事が人命救助に関わる重大な問題であっただけに、あまりにも状況を無視した不適切な対応であったという批判も生じています。
 イエス様の時代も、イスラエルの国では様々な古くからの掟や慣習に従って、人々は生活していました。特に安息日に関しては、この日は何の仕事もしてはならない、という定めが厳格に守られていました。ところが、ある安息日にイエス様の弟子たちが、空腹のため畑の麦の穂を摘んで食べたところをファリサイ派の人々に見咎められ「彼らは安息日にしてはならないことをしている」と非難されたのです。麦の穂を摘んで、それを手で揉んで殻をむくという作業は、もうすでに農業でいう収穫や脱穀の「仕事」をしていることと見なされたのです。
 長い間、守られてきた習慣というものは、それが守られていく間に何のためにそのようなことが定められたのかが分からなくなってしまう場合があります。イエス様の時代の律法に関する掟も「昔からそう言われてきたから」自動的に守っている、という人の方が多かったのではないでしょうか?それが何のためにあるのかを、すでに問うこともしないほど、もともとその掟が定められた時代の状況が分からなくなっていたのだと言えます。しかし、イエス様は安息日の掟は「人のために定められた」ものだ、とファリサイ派の人々に答えられました。イエス様はその掟の意味を、神様が人間を愛し守るための掟として定めたものであると知っておられたのです。この後の物語でも、安息日に会堂で手の萎えた人をイエス様が癒されるという奇跡の出来事が描かれていますが、それを見たファリサイ派の律法主義者は「イエスを殺そう」と企み始めた、それほどまでの拒絶反応を示したとあります。
 私たちは長年守られてきた習慣や伝統が、本来は何のためのものであったかを知らないまま「今まで守ってきたものだから」とか「守ることが当たり前だから」とあまり深く考えずに踏襲してきてしまっていることが多いのです。そして、そのような古くからの習慣・伝統に対し、それを無視するような行動や考え方をする相手を「あれは危険な秩序を破壊する者だ」と断定し拒否反応を示すこともあるでしょう。しかし、イエス様はたとえ長い間守られてきた習慣や伝統であっても、神様が「人のために定められた」人の命や自由を守るためのものと定めた、その本来の目的を見失ったまま、ただ守らなければならないものとして絶対化することはされません。むしろ「人のため」にならない、人の命や自由以上にその習慣や掟が重んじられ、人がその掟よりも軽んじられることをイエス様はゆるされないのです。イエス様がその命を十字架に献げられるほどに、私たち一人一人の命は重く価値あるものなのです。どんな伝統も掟もその命の重さほどの重さを持たないほどに。
(2018年4月8日週報より)